今学期、マインツの音楽大学で『Neue Musik (現代音楽)』の授業を履修している。
今日、先生から面白い問いを投げかけられた。
Was ist Musik? 「音楽とは、なにか?」
Was ist Still? 「静寂とは、なにか?」
それぞれ五分間の時間が与えられ、私たちはその問いへと向き合った。
シンプルな質問ほど難しいものはない。
自分の本質を言葉にして、人前にさらけ出すことへの恥ずかしさもある。
日本にいた私、まだドイツへ来たばかりの私だったならば、羞恥が先にたち、それなりの言葉で自分すらもごまかしていたかもしれない。
しかし、ドイツ語や英語が飛び交う教室にいる今の私は
ただ静かに、考えに没頭することができた。
What’s the Music ? ― 音楽とは、なにか?
Music is my life.
In the morning,
I wake up, wash the my face, eat breakfast,
and I play the cello.
“Sounds” are everywhere in my life,
like the air.
Music is a creation
made using the “sounds” by a composer.
Music is my work
that a way for me to make a living.
音楽とは 私の生活
朝起きて 顔を洗い 朝食を食べ
そして 私はチェロを弾く
「音」は 私たちの生活にあふれている
まるで 空気のように
音楽はその「音」をつかい
作曲家たちが創った 創造物
そして私の 生きる術
What’s the Silent ? ― 静寂とは、なにか?
Silent is oneself.
There is only oneself in the silent.
The silent in music is very impressive,
has a very meaning.
But in the silent,
I continue to feel myself
and continue to face myself.
静寂とは 自身
ただそこに 己だけが在ること
音楽の中の静寂は 印象的で強い意味を持つもの
しかし 静寂の中にいる私は
ただひたすらに自分を感じ
自分と向き合い続けている
音楽に携わる者に、音楽そのものについて問う。
哲学好きなドイツ人らしいが、それよりも個人的に興味深かったのは、静寂についても問われたことだ。
チェロの演奏において、長年言われ続けてきたことがある。
「平面的な演奏はやめなさい。
片方面からのみのアプローチはやめなさい。
奥行きと広がり、そして、多方面からの視野を持ちなさい。」
上の答えをみても分かる通り、私の中で、静寂に対しての在り方はまだどこか中途半端。
恥ずかしい話だが、楽曲中の休符や間の取り方について、普段から散々考えを巡らせていながら、音が無いということ、その空間・時間、静寂そのものに対して、音楽家として深く考えて来なかったことを痛感させられる。
幼少期より、少しは視野も増えたと思いたいが、まだまだ片側だけに寄っているのかもしれない。
先生は静寂について、ジョン・ケージの『4分33秒』を例にあげた。
この曲はれっきとしたピアノ曲であるが、楽譜には一つの音符も書かれてはいない。
演奏者はただピアノの前に座り、4分33秒間なにも行わない。
その静寂によって、観客のざわめき、物音、衣擦れ…さまざまな音がホール内に生まれ、それが音楽と成っていく。
日本人の私がいるためか、静寂についてはその後、日本の『間』という考えにまで話が及んだ。
「尺八などによる日本音楽のバンド、君たちも知っているだろう?
それでは、この『間』というものがとても重要な役割を持っているんだ。
googleやwikipediaなどで、ぜひ調べてみてほしい。」
私も『間』について問われ、拙いながらも何とか説明を試みた。
「『間』という言葉自体は、still(独)やsilent(英)とは少し違い、
何かと何かの間に生まれるスペースや空間のようなもの。」
「雅楽の中の『間』は、クラシック音楽の中の休符のように、決められたテンポや時間がない。
そのタイミングによって、いい音楽と悪い音楽が生まれてしまう。」
先生は授業の終わりにこう結んだ。
「静寂があるから、音楽が生まれる。
静寂の間に、私たちは音楽を創造する。
私たち音楽家は常にこの
『音楽とはなにか?』『静寂とはなにか?』
という問いを自分に投げかけなければ、よい音楽を生み出すことはできない。」
帰宅し、これを執筆している今尚
私はこの二つの問いへと思いをめぐらせている。
現在(いま)の私が出した答えは、まだまだ回りくどく、つたなく、余計な言葉や装飾が多い。
この問いを研磨し続けていけば
いずれシンプルな自分なりの『核』を取り出すことができるのだろうか――
(思考する帰り道、見上げた空。)
上原ありす (Alice Uehara)
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休符に音楽を感じる事ができれば、一人前かもしれません。音楽家として。
つまり、演奏とは、音が正確に出せるかではなく。楽譜全体、余白も含めて、表現できるか?ではないでしょうか。ですから、コピーは、やはり、ダメかも?