ドイツに暮らす人たちは口々に、過ぎた夏を惜しんでいる。
「そうですね」とは答えられない正直者な私。

私は、季節の中で“秋”が一番好き。

 

朝、凛として澄んだ空気。
高く突き抜けるような青空。

星を見上げ、吐く息の白くけぶる夜道。

特に私がわくわくするのが、小さくも暖かい部屋の中で、熱いココアをすするひと時だ。

 

ぽっかりと空いた時間、ただただぼーっとしながらココアだけに向かう。
なぜか不思議なことに、昔からこの至福の時間は冬ではなく、秋でなくてはだめだった。

日本にいるとき、私の秋は“ココア”だった。

 

ドイツにココアはない。
カカオを原料とした甘い飲み物のほとんどは「ホットチョコレート」と呼ばれる。

だから、ドイツの私の秋は“ホットチョコレート”

 

 

至福の時間は郷愁の時間。
心は思い出の中へと立ち返る。

 

その日の私は、ドイツへ来たばかりの頃へ。

一冊の絵本が、久しぶりに目に入ったのだ。

 

 

 

 

『チェロの木』 作・絵 いせひでこ

 

 

2013年。

私がドイツ留学をはじめた年。
この絵本が発行された年。

私は勝手に、この絵本は私へのエールだと、そう思っている。

 

森の木を育てていた祖父、楽器職人の父、そして音楽に目覚める少年
大きな季節のめぐりの中で、つらなっていくいのちの詩

 

この作品は、“紡ぎ”の物語だ。

 

 

 

私のチェロケースには、いくつものサインが書かれている。
その中に一人だけ、絵本作家のサインがある。

この絵本の作者、いせひでこ先生だ。

 

 

まだ私が大学生の頃。
ご自身もチェロを演奏される先生へ、思い切ってケースへのサインをお願いした。
「チェロケースへサインするのは初めてだわ」と、快く応じてくださった。

先生は、学部は違えど同じ東京藝術大学を卒業された先輩でもあり、
阪神淡路大震災の復興支援「1000人のチェロコンサート」にも共に参加していた。

その経験から先生は、絵本『1000の風 1000のチェロ』を発表。

その後“木と人”を創作モチーフとして絵本を描き続け、
この『チェロの木』が生まれた。

 

 

絵本に登場する「パブロさん」

この名前にはっとするのは、私がチェロにたずさわっている者の証。
このチェリストの本名はきっと「パブロ・カザルス」という。

 

パブロさんは教会で、少年の父親が作ったチェロを演奏する。
“伴奏なしで演奏する” “バッハの曲”

バッハ作曲『無伴奏チェロ組曲』だ。

 

 

おそらくこれは第5番だろう。
“低い2本の弦を同時に響かせて”はじまるプレリュードは、この組曲の中で第5番しかない。

 

かつての私が、大失敗をした曲。

 

 

この第5番は、本来のチェロの調弦をかえて演奏されることがしばしばある。
私も挑戦した。

調弦を変えれば、左手の指づかいはがらりと変わる。
幼い頃から、呼吸をするのと同様に身に付いた指使い。
少しでも集中を欠くと、反射的に動こうとする指。
必死にコントロールする。

毎日の練習は、とてもぴりぴりとしたものだった。

 

しかし本番の日。
舞台の私は、当時の自分の中で最高と思える演奏をすすめていた。
特に、心配していた左手がするすると回るのは、自分自身が驚くほど。

 

このままいけば、今まで到達できなかったどこかに、いきつけるのではないか。

そう思った瞬間に、失敗した。

 

 

今ならわかる。
あれが“ランナーズ・ハイ”というものなのだ。

終わってから認識する、自分自身が置き去りになっている感覚。
演奏だけが前へ前へと進み、はっと我に返った瞬間にとまる。

十数年慣れ親しんだ調弦をかえての奏法も影響し、私は立て直すことができなかった。

 

大好きな絵本作家がチェロを描いた作品に、この曲が演奏される。
それを再び手に取った今、もう一度演奏すべき時に、きているのかもしれない。

 

 

『無伴奏チェロ組曲』は、チェリストにとっての聖書。
単なる練習曲と考えられていたこの組曲に命を吹き込んだのが、

チェリスト「パブロ・カザルス」―― パブロさん、だ。

 

スペイン・カタルーニャ地方に生まれたカザルスは、20世紀最大のチェリストと賞賛されている。
二度の世界大戦、スペイン内戦によるフランスへの亡命を経験した彼は、
チェロ奏者としての活動と共に、平和活動へも積極的に従事した。

 

当時94歳のカザルスが、

「私の生まれ故郷カタルーニャの鳥は、ピース、ピース (平和) と鳴くのです」

と語り、
カタルーニャ民謡『鳥の歌』をニューヨーク国連本部において演奏したという逸話は、

今も伝説として語り継がれている。

 

2017年6月。
そんなカザルスの故郷カタルーニャでは、2度目となる独立住民投票が行われた。

スペイン中央政府によって繰り返される、カタルーニャ民族を軽視する言動。
税金の支出と、還元される金額との大きな隔たり。
ここに至るまで、カタルーニャでは独立運動が盛んに行われていた。

中央政府による投票阻止行動を受けながらも、予定通り実施された住民投票。
賛成が9割にも達したことで、現首相は勝利宣言を行った。

カザルスが音楽を通し、願い続けた“平和”

その思いは、今を生きるカタルーニャ民族の人々へと受け継がれている。

 

きたる10月6日。
カタルーニャでは「独立宣言」が行われる見通しとなっている。
中央政府との溝は、ますます深まるだろう。

カザルスの故郷に、無益な血が流れないよう
平和的な解決を、心の底から願っている。

 

しかし。

各国では次々とテロ行為が横行。
連日、痛ましい事件が報道されている。

世界はいま、不安定だ。

 

今の世の中をみて、カザルスはなにを思っているだろう。

 

 

木は、見たり聞いたりしてきたことを、
歌ったのかもしれない、楽器になって―――

 

ほとんどの楽器は木でできている。
それを奏でる音楽は、自然という途方もない大きなものへと帰結していく。

音楽だけではない。
一人の人間が存在すれば、その人自身もそれを囲むすべての物事も、
自然を根源としてつながっている。

ひとつの仲間はずれもなく。

 

すべては、つながっている。

つながっているのに。

 

 

小さな部屋の中で、小さな平和を享受しながら、世界をおもう私。

 

私も、カザルスと同じ

“チェロ奏者”だ。

 

 

 

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【ドイツ在住チェロ奏者・エッセイスト】 東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校、東京藝術大学音楽学部を経て、渡独。現在 Hoschule für Musik Mainz(マインツ音楽大学) にて留学中。 ドイツと日本の二カ国を拠点とし、演奏・執筆活動を行っている。 詳しいプロフィール・他記事はサイトまで。