本日は、私のオタク部分を垣間見せつつも、演奏家で本の好きな私だからこそ書ける記事を。
7月20日、とあるキャラクターが誕生日を迎えた。
名前は及川徹。
ジャンプ連載中の、バレーボールを題材にしたスポーツ漫画、『ハイキュー!』に登場するキャラクターである。
男性キャラの登場人物の多くなるスポ根漫画。
今までの例に漏れず、女性のオタク・漫画好きには人気の作品で、先日覗きに行ったドイツでのオタクイベント”Cosday”(フランクフルトにて開催)でも、ハイキューのコスプレをしている方がたくさん。
進撃の巨人とハイキューが、ドイツでのコスプレでは人気の印象を受けた。
話を戻して。
そのハイキューで、主人公たちの通う高校と同じ宮城県内で、因縁深いライバル校・青葉城西高校バレー部主将をつとめるのが、この及川徹。
好きなキャラは他にいるけれど、私の中では、彼は特別なキャラクター。
それはなぜか。
彼が”努力の化け物”だから。
”及川徹は天才ではない”
まずこの言葉が、私の胸を打った。
ただ、努力家なキャラクターなら、この漫画内でも、他作品にも多数描かれている。
少年漫画では特に定石なキャラ設定である。
私が惹かれる理由、彼とその他のキャラクターたちとの違いはなんなのだろう。
先日、モーツァルトの才能についてふれる記事を書いた。
そして、そのモーツァルトを題材にした有名な映画に「アマデウス」がある。
天才モーツァルトの出現に、嘆き、苦しみ、憎しみを抱くのが、同じく宮廷音楽家で地位を築いてきたサリエリ。
この映画が人気の理由は、映画全体のスリリングさもさることながら、やはりどこかで、サリエリに共感してしまう人が多いからではないだろうか。
サリエリは、モーツァルトに出会ってすぐに、彼の持つ才能の素晴らしさに気付いてしまう。
それは、幼い自分がかつて、神様に求めた才能そのもの。
下品で、礼儀もまるでなっていない、子供のままのようなモーツァルト。
そんな人間が、自分が渇望していた才能を、まるでなんでもないことのように持ち、すぐそばにいる。
そのことが彼を追い詰め、ついにはモーツァルトを死へと導いていく。
神様は残酷だ。
秀才な人間こそが、その才能を誰よりも欲する人間こそが、誰よりも一番、天才の才能、作り上げた作品の持つすばらしさ、美しさがわかってしまう。
ゆえに、それを自らの手で作り上げられないことへの苦しさが、より増すのだ。
けれど、及川徹はそれを取り繕わない、隠さない。
同じ競技をする天才なんて、才能のないものにとっては疎ましい存在でしかない。
努力を続けてきたからこそ、その才能の一部でも自分にあればと、そんな負の感情を抱かずに仲良くできるわけがない。
「天才なんて大嫌い」とこともなげに口にして
天才の後輩に教えをこわれても、きっぱりいやだと断ってしまう。
行為としては最低だけれど、隠さぬ代わりに、彼は天才たちに、おかしな嫌がらせも無視もしない。
目をそらさずに向き合い、自分はただ練習に励むだけ。
女生徒からの人気を集めるほどの顔のよさ、頭の回転のはやさ、人に対する分析力に長け、いじられつつもどこか憎めないというキャラクターに、人心掌握もうまく、対人関係もきっと難なくこなせるだろう。
バレーボールでなければ、彼はおそらく、そこそこ恵まれた人生を送れるに違いない。
バレーボールでなければ、与えられたなにか別の才能で、もっと楽な人生があったかもしれない。
でも
彼は、バレーボールに出会ってしまった。好きになってしまった。
秀才だ、優秀だ、ここまできているのだから才能がないわけではない
と人は言うかもしれないけれど。
”あの才能”がないことを、自分だけはわかる。天才ではないことだけは自分だからわかる。
それを理解し、だからこそ前と後ろの天才に挟まれながら、苦しみ、もがき、けれどボールを打ち続ける。
腐らず、止まらず、努力することをやめない。
おそらく神様は、彼に、努力できる才能だけは与えたのだ。
この哀愁と人間くささ、そして、この及川徹というキャラクターに、少しだけ自分自身を重ね合わせてしまう。
それが、私のなかで彼が特別なキャラクターに位置づけられている所以である。
高校卒業を控えた及川に、こんな言葉が与えられる。
『全ての”正しい”努力』
耳に痛い言葉である。
この言葉を思い出すたび、私はいつも自問自答する。
「私は今、”正しい”努力をできているか?
すべてにおいて。欠けることなく。逃げることなく。」
残念ながら未だ、その問いに堂々と、”Yes”と答えられたことはない。
私はオタクではあるけれど、文学オタクでもある。
漫画から得るものもたくさんある、人生を変えてくれる出会いもあるという言葉には大いに賛同するけれど、
漫画ばかりを読みふけることには賛成できない。
漫画には絵があり、文章だけのものよりも圧倒的に、多くの情報を容易に受け取ることができる。
けれど、文章を読まなければ、言葉から意味を受け取り感じ取る力、文章を読み込む力は確実に衰える。
それが衰えてしまっては、本からだけでなく漫画からも、受け取れるものは圧倒的に少なくなってしまうだろう。
同じ言葉なのだから、書かれたものだけでなく、人との対話にも同じ影響が出るはずだ。
漫画ばかり読んで…という批判はあながち間違いではない。
けれど、たかが漫画…と、漫画自体を世間に意味のないものと捉えられてしまうのもまた違う。
作中のこの言葉は、”たかが漫画”の一言で片付けてしまうには、惜しい言葉だ。
人が創作したものには必ず、人を動かす何かが宿る。
少なくともこの言葉と及川徹は、”いま”の私自身をはかるための、大事なものさしとなっている。
上原ありす (Alice Uehara)
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