コントラバスケースの中に、死体が眠っている
そんな空想を、弦楽器奏者ならば一度は抱いたことがあるのではないだろうか
東京藝術大学は、その構内に『奏楽堂』と呼ばれるコンサートホールを擁している。
パイプオルガンを持つそのホールでは、芸大関係者や教授陣、プロの音楽家を呼んでのコンサートのみならず、芸大生および附属高校に通う生徒たちによる定期公演や、実技試験までもが一般公開で行われる。
この立派なコンサートホールが身近にあるおかげで、在学する生徒たちには、重いプレッシャーを背負わなければならない機会が幾度も訪れる。
けれど、それは同時に、10代の頃からその大きな舞台で、多くの観客の方々の前に演奏を披露するという、得がたい経験を積むことができるということ。
かくいう私も在学中の7年間、大変お世話になった想い出深いホールである。
『奏楽堂』という名前が示すような、新しくもどこか神聖な気配のする舞台上の、あの凛とした空気は、ドイツで生活しているときにこそ思い起こされることが多い。
教会内部に足を踏み入れる瞬間、外に響く鐘の音、鳥たちのさえずり。
そのたびに私は一瞬にして、チェロを持って舞台袖に立つ私に引き戻されるのだ。
その『奏楽堂』の舞台裏には、コントラバスケースが数個立ち置かれている。
白を貴重とした内部のデザインの中で、黒くて大きく、鈍重そうなそのケースが横に並んでいる様子はなかなかに浮いていて、私はそれを見るといつも、吸血鬼の眠る棺桶を思い浮かべた。
そのイメージからだろうか。ふとしたとき、こんなことを思った。
あの中ならば、死体を隠すことも容易だな、と。
普通の体型の人間ならば、それこそ棺(ひつぎ)に入れられるように、何の窮屈さもなくおさめることができるだろう。
誰にも気づかれることなくひっそりと、楽器の変わりに人が眠っている。
この中のどれか一つくらい、そんなことがあっても不思議ではない。
その考えはそこまで突拍子のない発想ではないだろう。
布で出来たソフトケースではなく、ハードケースの存在を知り、それを目にした事のある人間ならば、そのことを思いつく可能性は十分にあると私は思っている。
なぜならもうすでに、それを使って実際に死体を隠した人間が存在しているからだ――
――それは、とあるミステリー小説の中で。
横溝正史の発表した長編探偵小説、『蝶々殺人事件』の中に、それは描かれている。
とある歌劇団一行の、大阪公演初日。
送り届けられた団員のコントラバスケースを開くと、そこには薔薇の花弁に覆われた、ソプラノ歌手の遺体が横たわっていた。
東京公演を終えた前日。大阪へと向かう彼女は、テノール歌手からバラの花束を贈られ、その際に落ちた楽譜を読んだ途端、急に品川駅で下車し、東京に引き返したという……
楽器ケースを使った遺体運び、楽譜の暗号と、音楽尽くしの殺人事件である。
この小説を書くにあたり横溝正史は、当時音楽学校の声楽科生徒であった知人から、音楽上におけるアドバイスを貰い受けたらしい。
そもそもこの作品が生まれる核となった、コントラバスケースという遺体の隠し場所も、彼とのたわいない雑談からだったという。
「江戸川さんの小説に、死体をピアノの中へ隠すところがありますね。あれは小説としては面白いけれど、われわれ専門家から見ると、やはり変ですね。ピアノの中には絶対に人はかくせませんよ。」
「私は一度コントラバス・ケースに入ってみたことがあるんですが、きれいに立って入れるんです。探偵作家がどうしてあれを利用しないのか、やはりご存じないんでしょうね。」
このやりとりと、F・W・クロフツの『樽』という作品、またこの知人が戦争中イタリアの楽壇で『椿姫』を演じた時のエピソードを元にして『蝶々殺人事件』は生まれた。
ピアノの江戸川乱歩と、コントラバスケースの横溝正史。
ミステリー作家たちは驚くほど多彩に様々なトリックを思いつくけれど、楽器を使ったミステリーはこの世にどれほど存在しているのだろう。
ぜひ一度調べ、全てを読破してみたい。
さて
これを書いている私は、チェロ奏者である。
チェロケースに遺体は隠せない。
子供ならば何とかなるかもしれないが、大人の身体だと、
チェリストには、遺体を隠し持ち運ぶことはできない。
けれど、チェリストは「エンドピン」を持っている。
椅子に座って演奏するチェロは、下部に穴が開いていて、
もちろん、抜き取ることも可能だ。
そこそこの鋭さを持つところ、楽器という見落とされそうな点。
使われ方次第では、
どちらにせよ、架空の殺人事件だからこそ可能なことであり、全くもって現実的ではない。
けれども万が一、億が一。
『事実は小説よりも奇なり』という言葉もある。
チェロ奏者やコントラバス奏者の恨みをかうのは、なるべくなら避けた方がいいかもしれない……
上原ありす (Alice Uehara)
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