人の愛は、なにによって呼び起こされるのか
私は、自身の片鱗を見出だしたとき、愛情の湧き上がる衝動に駆られることがある
今でも鮮明に覚えている。
あれは夏だった。
永遠に鳴り続ける蝉の声と、じっとりと蒸す狭い私室。
涼を得るためにフローリングの床に全身を押し付けながら、私は自身の中に眠る渇望を、本の中に見つけた。
同時に、その思いの根元がいまだ自分の中にくすぶり続けていたことに気づかされもした。
私が、三島由紀夫の『金閣寺』と出会った日であった。
幼少期の私について、ひとつの笑い話がある。
ジグソーパズルや砂場遊び。あることに熱中すると、母が名前を呼んでも話しかけても、一向に返事もしなければ反応もしない。
この子は耳が聞こえないのか、どこかに異常があるのではないか。
心配した母は、いくつかの病院へ私を連れて行ったという。
結果は、どこも異常なし。
そして、とある医師はあまりにも心配する母へ、笑い飛ばすようにこんなことを言った。
「お母さんは、よその子と比べ変わっていると心配しているかもしれませんが、お子さんはどこにも異常はありませんよ」
私は、あまりしゃべらない子供だった。話すことが苦手だった。
なにかを発するということもあまりしなかった。
興味のあるもの、なにかに熱中すると、それは顕著になり外部を遮断した。
人に話すと信じられないとよく言われるが、人との会話にはいまだ苦手意識がある。
そのくせ「伝えたい」「理解されたい」という思いだけは人一倍強い。
強いからこそ、そのために言葉を発することがうまくいかず、さらにその思いを深めていく。
吃りは、いうまでもなく、私と外界とのあいだに一つの障碍を置いた。最初の音がうまく出ない。その最初の音が、私の内界と外界との間の扉の鍵のようなものであるのに、鍵がうまくあいたためしがない。
『金閣寺』の主人公は、吃音もちである。
そのことに強いコンプレックスを抱き、自分を卑下し、醜いと思っている。
しかし、自尊心は強い。
寺の息子であるがゆえ、この世のすべてのもの――今自分を馬鹿にしからかっている同級生たちもみな――死をもって、坊主となった自身の広げる両の腕の中へと入ってくるのだと。そんな傲慢な誇りを抱く。
金閣への美しい幻想に囚われ、時に憎み、時に焦がれ、異常なまでの執着を募らせていく彼。
『異邦人』のムルソーに自身の罪を見出した私は、彼に、私の影を見た。
人に劣っている能力を、他の能力で補填して、それで以て人に抜きん出ようなどという衝動が、私には欠けていたのである。別の言い方をすれば、私は、芸術家たるには傲慢すぎた。
『金閣寺』と出会った私は中学生で、チェロを始めてからすでに10年近くが経っていた。
彼は、チェロと出会わなかったもう一人の私だ。
チェロの音に言葉はない。
しかし音を発することで、言葉にしきれない“内”のものを乗せ、伝えることができる。
5歳でチェロと出会った私は、子供ながらにそのことを感じ取り、自分には言葉の代わりとなるもう一つのコミュニケーション手段があるのだと、ほのかな自信が芽生えた。
周りの子供と遜色なく言葉を発するようになったのは、このことが大きく影響している。
私の中に在り続ける「伝えたい」「理解されたい」が、私とチェロとの原点であり、いまだ奏で続けている理由でもある。
『金閣寺』によって気づかされた、私の中のほの暗いもの。
チェロと出会ってもなお、奥底にくすぶり続ける「わかってほしい」という渇望。
だから私は、書物を求め、書物を漁り、書物を愛するのかもしれない。
私はいつだって本のなかに、私を探し続けている。
『金閣寺』をきっかけに三島由紀夫へと傾倒していった私は、次々と三島作品を読み漁った。
そして『美しい星』に出会った。
人間はこれらの瞬間瞬間に成りまた崩れ去る波のような存在だ。未来の人間を滅ぼすことができても、どうして現在のこの瞬間の人間を滅ぼすことができようか。あなた方が地上の全人類の肉体を滅ぼしても、滅亡前のこの人間の時は、永久に残るだろう。
主人公の言葉を通して語られる、三島の地球上の人類への深い愛情。
私もまた、許され、愛されている。生きる指針をもらえた気がした。
三島由紀夫が日本文学者ドナルド・キーン氏へ宛てた最後の手紙に、こんな文がある。
「ただ一つの心残りは「豊饒の海」のことで〔中略〕なんとかこの四巻全巻を出してくれるやう、御査察いただきたく存じます。さうすれば世界のどこかから、きつと小生といふものをわかってくれる讀者が現はれると信じます」
1月14日は、三島由紀夫がこの世に生を受けた日。
私は彼の作品や文章を、ただただ愛している。
上原ありす (Alice Uehara)
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