深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいている
ニーチェの言葉だ。
なにか得体のしれない存在を示唆するような気味の悪さ。
言葉の意味を思考するよりも、まずその感覚に襲われた。
つまりーー意思のないただの物体や、何もないと認識している空間に、人は知らぬ間にじっとりと見つめられ続けているのかもしれない、と。
「深淵」という名が付けられたことで、暗闇は私の中で目に見えない目を持つようになった。
名前の持つ力は強い。
だからこそ人は、名前に込められた願いに沿うように、無意識に行動してしまうのでは。
名付けという行為の恐ろしさを思う。
私は、数学者が生み出した物語から「アリス」という名を授けられた。
私にとってもう一人の名付け親、ルイス・キャロルは1月27日に生まれた。
本名 チャールズ・ドジソン
彼には、多くの「子供友達」が存在した。
(そのため彼には一時期、少女愛説が唱えられていたが、今は否定されている)
その中の一人、アリス・プレザンス・リデル
ドジソンが数学講師を務めていた、オックスフォード大学クライストチャーチの学寮長の娘。
彼はこの「子供友達」のために、彼女を主人公とした物語を作った。
それが「不思議の国のアリス」だ。
当時、学寮長一家は大学敷地内に住んでおり、ドジソンもまた亡くなるまでの26年間をこの大学の講師として過ごした。
彼は、幼かったアリスたち三姉妹の、よき遊び相手であった。
趣味であった写真撮影、即興物語、ピクニック…
しかしそんな夢のようなときは瞬く間に過ぎ去り、彼女たちの成長とともに、その交流は薄くなっていく。
物語のアリスは、奇想天外な冒険の後、不思議の国から目覚める。
そしてバトンはアリスから姉へと移り、ラストには彼女の夢物語に耳を傾けた後の、姉の心が描かれている。
アリスが迷い込んだ不思議の国。
その余韻に浸りながらも、もうすでにその夢の世界へ何も考えずとびこんでいくことのできない自分。
目を開けてしまえば、すべてがつまらない現実へと変ってしまうことを、お姉さんは知っている。
そして彼女は、大人の女性へと成長していくであろうアリスへと思いをはせる。
『小さな妹の持つ、この稀有な心の輝きがいつまでも続いていくように』
姉を通して語られるこの心情は、ドジソンのものではないだろうか。
一所にとどまり続ける自分。巣立っていく少女たち。
物語が生まれた「黄金の昼下がり」のなかで、すでに彼はまだ幼い彼女たちの将来に夢を託していた。
現実のアリス・リデルは成長し、1934年に82歳でその生涯を閉じた。
ドジソンの願いが叶えられたのかは定かではない。
しかし、彼が描いた「アリス」は夢を託されながら、永遠に本の中で生き続けている。
幼少期のアリスが過ごした部屋。
その庭には、外へとつながる小さな扉がある。
作中でアリスがウサギ穴を落ちた先
時計ウサギが潜り抜けた小さな扉は、これがモデルとなっている。
ドリンクを飲み、クッキーを食べ…
アリスは自身の体を大小に変化させながら、懸命にこのドアをくぐろうとする。
ウサギを追うために。鍵穴から見た美しい世界に行くために。
オックスフォード大学を訪れていた私は、疲れた足を休めるために教会のベンチに座っていた。
そこに偶然、ツアーで訪れている旅行者に向けたガイドさんの言葉が飛び込んできた。
導かれるように振り向いた先、その小さな扉が暖かな光に包まれていた。
隣には、日差しを受け枝を広げた木。
キラキラとした輝きはまるで、チェシャ猫が笑っているように見えた。
アリスは ドジソンは
この扉の向こうに、何を見ていたのだろう
そして私は
何を見ることができるのだろう
「ありす」という名の私は音楽を志し、背中にチェロを背負って歩み続けている。
私の前には、いつだってぽっかりと口をあける深淵が広がり、この先にもそれは続いている。
闇と戦い、前進する毎日だ。
しかし私は自由で、なにものにも捕われることはない。
私はいま、夢を追っている。
閉じられた扉に、思いを馳せた。
上原ありす (Alice Uehara)
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