ドイツでの演奏活動の一つとして、日本舞踊とクラシック音楽のコラボレーションを行っている。
2018年3月4日。その活動における新作披露の舞台があった。

 

(詳細はこちら http://kaninchen-bau.com/events/event/04)

 

曲は、ヴィラ=ロボス作曲「ジェットホイッスル」
以前行った「春の海」とは違い、今回は既存のクラシック音楽にオリジナルの創作舞踊を振付けたものだ。
私にとって、この舞台のための練習期間であった2月は、まさに踊る芸術を間近に感じ続けた一ヶ月だった。
それは、平昌(ピョンチャン)で開催されたオリンピック期間と重なる。

2018年2月8日から25日まで開催されていた『冬季平昌オリンピック』
ドイツにももちろん、日本人選手たちの華々しい活躍や吉報は届いてきた。
中でも、日本をもっとも湧かせた選手といっても過言ではないのが、フィギュアスケートの羽生結弦選手ではないだろうか。

 

 

実は私は、スポーツ観戦にほとんど興味がない。
そんな私が、唯一強い関心を持って観戦するのが、フィギュアスケートだ。
それはフィギュアが、スポーツと芸術の二つの顔を合わせ持った競技だからだろう。
クラシック音楽が用いられることも多く、私のような音楽関係者の根強いファンも多数存在する。

そのフィギュアスケートにおいて、今回のオリンピックで羽生選手は二連覇を成し遂げた。
彼の話題は閉会後も引き続き、日本国内・国外にいる日本人の注目を集めている。
それが、日本記者クラブで行われた、羽生選手による記者会見だ。
私も、そのすべてを読んだ。

 

(記者会見の全文はこちら http://logmi.jp/270456)

 

 

『難易度と芸術のバランスというのは、僕は本当はないんじゃないかなと。芸術は絶対的な技術力に基づいたものであると、僕は思っています』ーー羽生結弦


音楽はもちろん、芸術のひとつだ。

音楽家もまた「枠」というものの中で表現を模索している。
それは決して不自由ということではない。
枠、骨組み…「基本」といわれるもの。
それによる裏づけがなければ、美しさは生まれない。

「基本」とは基礎的な技術力であり、芸術を志す人間は「形式」を「普通」に行えるようにするために何十年という日々を費やす。
そして「形式」を根本に置いたまま、基礎的な技術を用いて「自己を表現」する。
これに成功したものが芸術における「美」に昇格できる。
「自我表現」と「自己表現」は、まったくの別物なのだ。


羽生選手がないと言葉にした、難易度(技術)と芸術のバランス。

このことに葛藤する一人の青年を、私は知っている。
羽生選手の記者会見を読みながら、私は彼のことを思い出していた。

 


ジョージ朝倉の漫画作品『ダンスダンスダンスール』

女性漫画家の描くバレエ漫画でありながら、これは一人の青年を主人公にしている。

クラシック・バレエだけにとどまらず、フィギュアスケートしかり、私は美しく「踊る」ものに惹かれる。
これまでにも、それらを題材とした映画や書物などは好んで手にとってきたが、男性側のクラシック・バレエを描いた漫画には初めて出会った。

 

主人公・村尾順平は、いわゆる天才型だ。
才能もあり、体系にも恵まれている。
幼い頃にクラシックバレエと衝撃的に出会い、心惹かれるも父親の死をきっかけに断念。意識的にバレエを遠ざけた生活を送っていた。
そんな彼が、ひょんなことからバレエを再開することになるのだが…

技術力というものは時間を裏切らない。
自分がバレエから離れている間にも、同年代のダンサー達は技術を磨き、すでにはるか前を進んでいる。
しかし、戦えないわけではない。
そのうえ、その荒削りの才能が多くの人々の目を奪ってさえしまうところが、天才の憎いところである。

 

 

バレエにのめりこむ順平。
感性が人一倍強い彼は、幾度もクラシック・バレエの「形式」と「表現」の狭間でゆれ動く。
思うがままに踊る気持ちよさへの欲求。
計算と技術に裏打ちされた踊りによってもたらされる圧倒。
その葛藤は実にリアルだ。
読んでいるうちに、私自身もなにが正解か、なにを信じていいのかがわからなくなっていくのが面白い。
それは、その迷いが、現在の自分にも覚えのあるものだからだ。

 

 

『いろんなことをとことん考えて分析して、それを感覚とマッチさせることが自分の強みです』


メダル獲得直後の羽生選手の言葉だ。

このプロセスを、私もチェロを演奏する時、そして文章を書く時に用いているように感じる。

自分の外にあるものを分析し、自分の内側に落としこんで「感覚とマッチさせる」
その感覚を人に伝えるため、音や言葉というカタチにする。

チェロの演奏においては、自然に何十年も繰り返してきたこの作業。
しかし「他人に読んでもらう文章」として、日常で使う「言葉」に対してこの作業を使用することで、演奏においても執筆においても「伝えたいことを他人に理解してもらう工夫」をより強く意識するようになった。

いくらなにかを表現しようとしても、人に伝わらなければ、それは“無”になってしまう。
表現者に強いられる感情と理性のバランス感覚は、まるで表面張力ぎりぎりのコップの水のようなもの。
少なすぎず、しかしあふれすぎないように保つ冷静さを、私達は欠いてはいけない。

 

 

 

記者会見での羽生選手の言葉は、私にとって共感と学びの連続だった。
特に、羽生選手と同じように「いつでもやめてくれてかまわない」というスタンスの親を持つ私にとって

『今まで続けてきたこと、続けさせてもらえたことが特別』『これをやめたら、これまでの生きていた意味がなくなってしまうかもしれない』

という言葉には、自分の根底にあるものを表にあらわされたような思いだった。

私自身、好きなことや興味のあることはチェロ以外にもある。
しかし「人生を賭け」「続けてきたもの」はチェロ以外にはなかった。

 

強い共感の反面、自身を省みさせられる言葉の数々もあった。
日本国中の人々に向け、堂々と「基礎的な技術」と「努力」について言葉にできる強さ。
そしてなにより、その言葉には実績という確かな裏づけがある。
私は画面の前で、少しだけ胸が痛んだ。

本番に向かう際、羽生選手は別人になるように自身を切り替えるという。

『それは自分の精神力であったりとか、「絶対に勝つんだ」とか「絶対に強くなるんだ」という原動力だと思っていますし、その切替がうまくいかないときももちろんあるんですけれども、その切替を絶対にやると決めてはいます』

 

人間の「思い込み」の力は強い。
しかしそれは、自身を信じ切れなければ発揮することはできない。
どうあがいても、人は自分自身に嘘をつくことはできないのだ。

胸の痛み。それは自分の弱さの証明だ。
人に感動をもたらすことを目指すなら、私は、今以上に強くならなければいけない。

 

このエッセイに新情報等を加筆し、修正した記事をnoteにてアップしておりますので、ぜひそちらも合わせてお読みください。
https://note.mu/kaninchenbau/n/n73c1fa045720?magazine_key=m31ef7e472e99

 

 

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【黒髪と赤いチェロケース】 ドイツ在住チェロ奏者。 東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校、東京藝術大学音楽学部を経て、Hoschule für Musik Mainzへ。 現在フランクフルトを中心に演奏活動中。 自身のオフィシャルサイト "Alice in Deutschland" にてブログを通し、執筆活動にも励んでいる。 Cello / Bibliophilia / Otaku / 詳しいプロフィール・他記事はサイトまで