楽曲解説シリーズ『本番を控えた楽曲たち』No.2

 

 

 

私が人生ではじめて出逢ったチェリスト。
それが、ゴーシュだった。

 

ゴーシュは町の活動写真館でセロを弾く係りでした。
けれどもあんまり上手でないという評判でした。
上手でないどころではなく実は仲間の楽手のなかではいちばん下手でしたから、いつでも楽長にいじめられるのでした。

 

 

この”いちばん下手”なチェリストに魅せられて、私はチェロを始めチェリストを目指し、
そうして留学したドイツの地で、再び私はゴーシュになる。

 

 

私がはじめてゴーシュとなったのは、2012年のこと。
東日本の復興支援を目的とされた、「はな募金チャリティLIVE」でのことであった。

フジテレビ系「世界名作劇場」での『赤毛のアン』にて、主人公のアン役を演じられた山田栄子さんとの縁をつないでいただき、その語りの中で演奏できる誇らしさ。
そしてなにより、私の愛する本と音楽、この二つの世界を融合するような企画に喜び勇んでいた私であったが、すぐに大きな障壁にぶつかった。

 

“なにを弾こう?”

 

 

 

宮沢賢治の描いた童話『セロ弾きのゴーシュ』には、さまざまな楽曲が登場する。
一度でもこの作品を読んだことのある方ならば、そんな印象を抱かれているはずだ。
私もそうであったし、確かにそれは間違いではない。

ならば、登場している楽曲をそのまま弾けばいいのでは?
ところが、そう簡単にはいかせてもらえないのが、宮沢賢治なのである。

今回はゴーシュに登場する楽曲たち、その”選曲”に焦点を当てて書いていく。

 

 

 

セロ弾きのゴーシュに登場する楽曲を、書かれているとおり正確に抜き出すと次のようになる。

 

「第六交響曲」
「シューマンのトロメライ」
「印度の虎狩」
「愉快な馬車屋」
「何とかラプソディ」

 

この5曲のうち楽曲が明確に判明しているのは、なんと気取りやな猫が注文してきた「シューマンのトロメライ(トロイメライ)」ただ一つなのである。

その上悲しいことに、このトロイメライは演奏されることはない。
猫の態度に腹を立てたゴーシュは、はんけちを引き裂いて自分の耳の穴へつめると、嵐のような勢いで「印度の虎狩」を弾きはじめるのだ。

 

 

この「印度の虎狩」と子狸の依頼で演奏する「愉快な馬車屋」は、完全なる賢治のオリジナルだといわれている。

チェリストを主人公とした作品であるため、これを題材にチェロ奏者が演奏するコンサートや企画は、今までにもさまざまな場所で行われてきている。
そこで必ず奏者たちの頭を悩ませるのが、この二曲だ。

曲の雰囲気に合う別の曲を、かわりに演奏するか。
それとも全くのオリジナルを作るか。
即興演奏をするか。

この二曲をどう演奏するかが、その奏者の腕の見せ所となり、
そして、その演奏会の特色がもっとも出やすい場所となるのである。

 

 

一度目のゴーシュでは、作曲や即興演奏に自信のなかった私は、「印度の虎狩」でポッパー作曲の「ハンガリー狂詩曲」の冒頭を演奏した。
本来この曲は、ねずみの親子に依頼される「何とかラプソディ」として演奏されることが多い。
チェロの楽曲として存在しているものであり、”狂詩曲=ラプソディ”だからだ。

朗読者である山田さんや企画発案者の方と話し合い、曲の雰囲気的にこれを「印度の虎狩」として、ねずみのシーンでは子守唄を演奏することとした。
子狸のシーンは残念ながら時間の都合でカットし、そして「第六交響曲」にはベートーヴェンの「交響曲第6番」を選んだ。

 

この「第六交響曲」にも諸説ある。

 

ひるすぎみんなは楽屋に円くならんで今度の町の音楽会へ出す第六交響曲の練習をしていました。
トランペットは一生けん命歌っています。
ヴァイオリンも二いろ風のように鳴っています。
クラリネットもボーボーとそれに手伝っています。

にわかにぱたっと楽長が両手を鳴らしました。
楽長がどなりました。
「セロがおくれた。トォテテ テテテイ、ここからやり直し。はいっ。」

 

 

「第六交響曲」としてもっとも有力視され、かつ一般的に浸透しているのが、ベートーヴェン作曲の「交響曲第6番〈田園〉」だ。

しかし、物語に描かれているこの描写から楽器構成を考えると、ベートーヴェンの第6番には該当する箇所がないと主張する方もいる。

大木愛一、池川敬司の『文学と音楽の交感‐宮沢賢治童話「セロ弾きのゴーシュ」を通して‐』の中では、これを踏まえ、チャイコフスキーの「交響曲第六番〈悲愴〉」が適切であると主張しているそうだ。

 

それでも私は、この「第六交響曲」はベートーヴェンであると考えている。

宮沢賢治が描く詩や童話からにじみ出る彼の人柄、このセロ弾きのゴーシュという作品に描写される風景や空気。
そしてなにより主人公・ゴーシュの持つ、朴訥で不器用で、すぐかっとなってしまう性格。
そのどれもが私に、”ベートーヴェン”を彷彿とさせるのだ。

今回も私は、「第六交響曲」にベートーヴェンを選んだ。

 

 

ドイツに留学するまでの私は、この演奏朗読会をはじめ、舞台で役を演じたりなど、
奏者という役割だけに留まらず、さまざまなことにチャレンジしてきたつもりでいた。

けれど実際には、与えられた課題や元々ある楽譜を演奏するだけで、ジャズや即興など、演奏上でアドリブ力を求められる仕事からは上手く立ち回って回避してきたように思う。
どうしても編曲が必要な場合でも、作曲科やピアノ科の友人に助けてもらっていたし、それが簡単にできてしまう環境にいた。

 

ドイツで活動を本格的に始動してから、
“あの頃の自分はいろいろなものに守られていたのだな”
と思うことが増えた。

当たり前の話だが、こちらでは生身の私ただ一人でぶつかっていかなくてはならない場面ばかりだ。

 

今回のゴーシュでは、そんな自分自身の殻を破るため、「印度の虎狩」で即興演奏に挑戦することにした。

これだけはいくら本番を想定しても、そのときにならなければ一体どうなるのかが、自分自身のことなのに全くわからない。
怖さもあるが、だからこその緊張感と楽しさもある。
これが成功すれば、自分のなかの何かがまた一つひらけるような、そんな確信が私の内に存在しているのを感じている。

 

 

そんな試行錯誤を経て、今回私が用意した楽曲がこれだ。

 

ベートーヴェン:交響曲第6番
即興演奏:印度の虎狩
アンダーソン:シンコペーテッド・クロック
ポッパー:ハンガリア狂詩曲
バッハ:無伴奏チェロ組曲第1番よりプレリュード

 

 

ゴーシュの元を訪れる動物たちは、彼のよき指導者だ。
毎晩かわるがわるやってくる彼らには、それぞれにきちんとした役割がある。

カッコーは”音程”を
子狸は”リズム感”を
そしてねずみの親子は、”楽器を響かせること”と”慈しみの心”を。

 

小太鼓の練習にと訪れた子狸から楽譜を渡された際、ゴーシュは
「なんだ愉快な馬車屋ってジャズか」
と発言している。
そして子狸はゴーシュの演奏の間中、自分の持ってきた棒で、セロの駒の下を拍子をとりながらぽんぽんと叩き続ける。

今回このシーンに私が選んだ「シンコペーテッド・クロック」は、アメリカ人作曲家ルロイ・アンダーソンによって作曲され、テレビ番組のテーマソングとして広く親しまれていた。
彼は「アメリカ軽音楽の巨匠」といわれている。

オーケストラの演奏中、ウッドブロックの音によってコツコツと拍子をとり続けるこの曲は、奏者も観客も楽しめ、コンサートのアンコールに使われることが多い。
私も何度か演奏したことがあり、このシーンを考えているときにふいにこの曲が頭のなかに流れ、曲の持つ雰囲気や物語の描写にぴったりだと起用することにした。

 

 

ポッパー作曲「ハンガリー狂詩曲」は、私が小学生の頃から弾き続けてきたお気に入りの曲だ。

有名なリストの「ハンガリー狂詩曲」を元にポッパーの手によって編曲されたこの曲には、リストのそれと共通する旋律も登場する。

幼い頃、自分なりに色々と考えていたつもりでも、ただポッパーのものだけを聞いていた当時の私の演奏はあっけなくそれを見破られ、このリストのハンガリー狂詩曲の存在と関係性を指摘された。

このときのことは今でもよく覚えている。
自分の得意曲だと感じていたこともあり、その指摘は私の深い部分を刺激した。
今思い返すとこれをきっかけに、曲についてただ”考える”ではなく”研究する”ということを幼いなりに模索し、実行し始めていったように思う。

そういった意味でも、このポッパーの「ハンガリー狂詩曲」は、私にとって特別な楽曲の一つでもある。

 

 

 

さて。
楽曲の中に、ゴーシュの物語には登場しないものが一つ混じっている。

バッハ作曲の無伴奏チェロ組曲だ。

ドイツでのセロ弾きのゴーシュが実現することになり、私のなかで密かに取り決めている約束事を、ここでも果たすことにした。

なにかシリーズとして演奏を行っていく際にきめていること。
それがこの、バッハの無伴奏チェロ組曲を演奏することである。

 

ゴーシュは物語の最後、第六交響曲の本番のアンコールに無理やり舞台に出され、怒りをぶつけるように印度の虎狩を演奏する。
前回の演奏朗読会では、私はここで、無伴奏チェロ組曲の第2番プレリュードを弾いた。

 

はな募金チャリティLIVEの目的は、なによりも東日本の復興支援であった。

第2番プレリュードには、バッハによる追悼の意がこめられている。
妻であるマリア・バルバラの死を悼み、作曲されたといわれているこの第2番。
この曲を選び、演奏に私がこめた思いは、”祈り”だった。

 

バッハの無伴奏チェロ組曲は、チェリストにとって特別な楽曲だ。
どんなチェリストも、人生の節目節目でこの曲を演奏し、録音し、解釈を深めていく。
私たちにとっての聖書(バイブル)なのだ。

今回の演奏会は、私にとって”挑戦”であり”はじまり”。

だからこそ、この無伴奏チェロ組曲の本当のはじまりである第1番プレリュードを、物語のラストに演奏させていただくことにした。

 

 

 

ゴーシュは努力家だ。

一見、動物たちによって上達したように見える彼の腕前だが、その根底にあるのはなによりも彼自身の努力だと私は思う。

 

次の晩もゴーシュは夜通しセロを弾いて明け方近く思わずつかれて楽譜をもったままうとうとしていますとまた誰(たれ)か扉(と)をこつこつと叩くものがあります。

 

さらりと書かれる文に見逃してしまいがちだが、オーケストラの練習から帰るとすぐにゴーシュはセロを弾き始め、やめるのはいつも”明け方近く”だ。

 

『正しい練習と惜しまぬ努力』

なにかを成し遂げるのには、そのどちらがかけてもいけない。
作者・宮沢賢治が「セロ弾きのゴーシュ」という作品をとおして伝えたかったのは、そのことだったのではないだろうか。

 

本番のための練習をしていると、作品の中のゴーシュの姿に、私はいつも襟を正される思いになる。

演奏会はもう5日後。

私をここまで導いてくれたチェリストと真剣に向き合い、彼に恥ずかしくない演奏を心がけたい。
そしてなにより、聞きに来てくださった方々に楽しんでいただけるためにも、私自身も楽しんでこの演奏朗読会にのぞめるよう、残りの数日を精一杯練習に励みたいと思っている。

 

 

 

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詳細はスケジュールページにて

 

 

本番を終えての記事はこちら
当日の演奏動画もお聞きいただけます

『セロ弾きとセロ弾きのゴーシュ』本番後記


 

 

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【ドイツ在住チェロ奏者・エッセイスト】 東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校、東京藝術大学音楽学部を経て、渡独。現在 Hoschule für Musik Mainz(マインツ音楽大学) にて留学中。 ドイツと日本の二カ国を拠点とし、演奏・執筆活動を行っている。 詳しいプロフィール・他記事はサイトまで。