Licht senden in die Tiefe des menschlichen Herzens – des Künstlers Beruf.
『人間の心の深奥へ光を送ること――これが芸術家の使命である!』
―― ローベルト・シューマン
私のチェロケースには、指揮者・大友直人先生のサインがある。
芸大附属高校での、私にとって最後の定期演奏会。
先生の指揮によるヘンデル作曲『メサイア』で、ありがたくもチェロの首席を務めさせていただいた。
サインは、その記念にいただいたものだ。
先生の音楽に直に触れ、当時の私は一瞬でファンになってしまった。
練習の日々から本番まで、先生は生徒である私達にも、終始紳士的な態度を崩さず。
そのふるまいや紡ぐ言葉には気品が漂い、まさに先生自身が「クラシック音楽」を体現されているかのようだった。
そんな先生のインタビュー記事をネットで見つけ、拝読した。
【話の肖像画】指揮者・大友直人(60) (6)日本に根付かないクラシック
https://www.sankei.com/life/news/190211/lif1902110009-n1.html
冒頭において先生は、日本と西洋におけるクラシックコンサートの現状を比較し、問題提起をされている。
演奏家と聴衆との心の交流。
それがなされていない日本に対し、ヨーロッパでの演奏会の印象をこう表現していた。
「聴衆がリラックスして、自然に音楽を楽しんでいる温かな空気」
私が初めて、ヨーロッパでの演奏を体験したのはパリだった。
芸大附属高校のオーケストラが招致され、パリ・ユネスコの本部で演奏会を行った時だ。
そのときの光景を、今も鮮明に覚えている。
観客席に座る方々は、日本人の、それも学生である私たちの演奏にも熱心に耳を傾け、その表情は本当に心から音楽を楽しんでくださっているようだった。
聴衆の一人一人が、私たちの音楽に向き合ってくれている。
演奏中にもかかわらず、そのことを肌で感じた。
そして、終演後の強い拍手の音。
自然なスタンディングオベーション。
日本の演奏会との大きな違いとして、強く印象に残った。
私が、ドイツへ渡ることを決めた理由のひとつがここにある。
クラシック音楽が、生活の中に生きていると感じたのだ。
そして、そのヨーロッパの一国で演奏活動へと取り組んでいる今、先生の書かれた悩みの中に私もいる。
「芸術性に立脚して音楽の可能性を追求する実験音楽はもちろん価値がありますが、
エンターテインメント性との両立が難しいケースが多いのです。」「今も世界中のクリエーターたちは芸術性とエンターテインメント性の両立を目指し、試行錯誤しながら新しい作品を創造しています。」
日本での音大時代。
多少なりとも演奏活動の機会は得ていたが、当時耳に入ってきたのは、積極的にクラシック音楽を求める人の声ばかりだった。
クラシック音楽を愛し、それを聞くために足を運んでくださった人々。
唯一異色だったのは、私の母の意見だ。
音楽に無知ゆえの感覚的な感想や独特な視点は、その時聞こえてきていた多くの人の声とは少し違っていて、いつも新鮮な驚きを覚えていた。
音楽を志す娘を持ちながらも、彼女はあくまで一般的な大衆であった。
クラシック音楽を特に好まない、本当に普通の人。
現在(いま)、私の周りにいる多くは、そんな母のような人ばかりだ。
まさに『芸術性とエンターテイメント性の両立』を考えさせられる意見が、直に聞こえてくる日々を送っている。
音楽に楽しさを見出そうとする彼らは、私達が意義を感じる難曲や新曲への挑戦を求めているわけではない。
実際、会社勤めをしている友人と二人で足を運んだ演奏会後、
現代曲の並んだプログラムに「なんだかよくわからず楽しめなかった」
というぼやきを落としていた。
「クラシック音楽は、わからないからつまらない」
よく耳にする意見だが、人は自分の理解できないものに退屈さを覚えてしまう。
だからこそ知っているものや、楽しさがわかりやすく表されているものに大衆は心をつかまれるのかもしれない。
なんとなく、本と漫画の関係性と似ているなと私は思う。
独特な衣装や、ロック・ポップス・ゲーム・アニメ要素を加え、独自の路線を確立していくクラシック演奏家もいるが、まさに典型的な例に思える。
視覚的な面白さやかっこよさは、簡易的に「楽しい」という感情へと直結することができ、人々は好んで見聞きするようになる。
また、馴染みの薄いクラシック音楽に、馴染み深くノリのいい他音楽がプラスされることで、先入観や抵抗もなくスルリと音を心の中に入れることができるのかもしれない。
それは決して、日本に限った話ではない。
クラシック音楽に親しみ深いこちらでも、一般的な層から名前を聞くのは、オーソドックスなクラシック演奏家ではない。
コンサートにおいても、知名度の高い名曲でなければクラシック以外のものを求められることも多い。
日本人ということで、日本の文化を全面に出すことを依頼されたこともあれば、自称音楽好きなドイツ人から「ゴスロリ衣装で演奏してみてほしい!」と言われたこともあった。
音楽は自由で柔軟なものであるべきで、大衆がそれを面白いと求めるならば、それらの道は決して間違いではない。
むしろ、エンターテイメントとしては正解である。
では、エンターテイメント性だけを追い続けることが、演奏家としての正解なのだろうか?
そもそも、演奏家という形に正解はない。
ならば、どんな演奏家でもいいのか。
それは違う。
身勝手な演奏家が、演奏家として成り立つことはできない。
この仕事は、求めてくれる聴衆がいなければ成り立たない職業だから。
身勝手な演奏家とはなんだろう。
観客へのエンターテイメント性を無視し、演奏したいものだけを演奏するのは身勝手な演奏家と聞こえる。
しかし。
クラシックの真髄を探求し、現代音楽の発展に努め、それらを大衆へと伝えていく。
これは、演奏家としての崇高な使命である。
そう、私たちの使命はいつだって、紙一重の差で身勝手さになりうるものなのだ。
では、私たちが、私が、その使命を成し遂げようと、音楽へ向かい続けているのはなぜ?
――― それは 人々に喜びを与えたいから。
自己満足と使命とを線引きするものは、演奏家がその根底に持ち続けなくてはならない、
この「人への思い」でなはいだろうか。
そして、私たちが追う喜びとは、楽しさではない。
「心が動くこと」だと、私は思う。
それはきっと、エンターテイメント性だけでは、適えることはできない。
真に到達された「芸術」は、知識や複雑さを超え、人の心に届く力を持つ。
私はそう信じている。
しかし、知覚してくれる人がいなければ、真の芸術も誰にも知られることなく終わるのだ。
エンターテイメント性とは、人々に認知してもらうために必要なものであり、
芸術性は、人に感動を与えるために必要なもの。
どちらかが欠けても、どちらかに偏り過ぎても
「芸術」に到達することはできない。
そしてそのバランスは、とてもとても小さな点によって支えられている。
だから私達は、常に悩む。
きっと、悩まない演奏家こそが、もっとも身勝手な演奏家なのだ。
例えどんな方法を取り、どんな道をたどろうとも。
音楽に真摯に向き合い追求し続ければきっと、その二つが両立する小さな点へとたどり着くことができるのだと。
そう信じて、私は今日も悩み続けている。
上原ありす (Alice Uehara)
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