ヘルマン・ヘッセが私にくれたもの。
それは、大切な親友とドイツへの憧れだった――
「クジャクヤママユ」という単語が、私の世代にとってひとつのキーワードとなっている。
私が、その懐かしい言葉と再会したのは『ニコニコ動画』だった。
動画内に突如起こった「クジャクヤママユ」という言葉の「弾幕」
それは多くの視聴者たちが、その言葉を覚えている表れでもあった。
画面前の私は、懐かしさに笑った。
思いもかけていなかった場所で、記憶のフタが開かれたのだ。
そして、この言葉が未だ根強く浸透していることに、どこか感慨深い思いにもとらわれていた。
私たちが、その耳慣れぬ「クジャクヤママユ」と出会ったのは、中学の国語の教科書だった。
ドイツの文豪 ヘルマン・ヘッセ
彼の短編『少年の日の思い出』が、中学1年生で扱う国語の教科書に登場する。
中学という新たなステージへと上がったばかりの時期に出会うには、少しばかり刺激の強い話に思う。
内容に問題があるというわけではない。
ただ、登場人物たちの言葉や行動に、強い印象を残される作品なのだ。
格好悪いことへ死ぬほどの恥を思う十代にとって、それがたとえ嘲笑や馬鹿にした面白さ funny であっても。
授業は退屈だと、睡眠さえとりがちな生徒の多いなかで、この作品には記憶に残る「面白さ」があった。
あの日。
授業後の休み時間、やはりクラス中でこの作品へと話題が展開していた。
主人公の破天荒な行動をネタにし、クジャクヤママユという言い慣れない言葉をふざけては繰り返す。
仲のいい友人たちも、もちろん嗤っていた。
私は、その話に加わらないかわりに、口を閉ざした。
私はこの作品に、interestingの面白さを見出していた。
しかし、盛り上がる中で反論を口にしても、理解されないだろうことはわかっていたし、
そのことで、私の中にある作品へと感じた「なにか」も一緒に穢されてしまうような気がした。
喧騒の中に立って私はただ、短い文章の中で主人公が見せた、人間の大きな感情の起伏や激情のようなものにとらわれていた。
ふと隣を見ると、グループの輪の中、私と同じように口を閉ざし続ける子がいた。
彼女は元々口数の少ない子で、いつも積極的に発言をする性格ではなかったし、平素の通りならば、またいつものように聞き役に徹しているのだと流してしまっただろう。
しかし、ふと目があった瞬間。
私は、彼女もあの作品に何かを見出したのだと、そう直感した。
そして、その直感をお互いに抱きあったのだということも。
それから、私たちはひっそりと、文学について話すようになった。
ヘッセの他作品から始まり、ゲーテ、ツルゲーネフ、カミュ、シェイクスピア…。
海外の古典作品にはまった私は、次々とそれらを読み漁った。
私が読んで薦めた本を、彼女は必ず読んでくれた。
意見や感想を交わすことを私たちはあまり好まなかったが、お互いの中に同じ本が積み上がっていくことが、絆を強めていくのを感じていた。
本を読む人間自体が少ない中、文学を好む私たちは「変わり者」だった。
それを恐れぬ私と、恐れる彼女。
だから、私たちがそれについて話すときはいつも、友人たちの輪から不意に離れた二人だけの空間だった。
中学時代、学校という閉ざされた環境の中で、人と違うということはそれだけで罪になる。
おかしな話だが、みんなから拒絶されるのも、嘲られることも、仕方がない理由となってしまう。
その、狭くて小さな世界の中では。
私は、チェロを弾き続け、チェロ奏者になるという目的を持っている時点ですでに、
大多数の彼らとは違ってしまっていた。
休日に遊べない、話題がわからない。
それは私から友人の数を減らし、そんな私を受け入れ仲良くしていた友人たちでさえ、どこか一本の線のようなものを引かれていることを感じていた。
そんな友人たちから、ある日こんなことを言われた。
「私たちからありすのことは、休日の遊びには誘わないようにするね。」
「断るとき、いつも辛そうな顔するし。」
「ありすが遊べるとき、ありすから私たちを誘ってほしい。」
その瞬間、私は、湧き上がるうれしさを覚えた。
何度誘われても断るばかりで、練習の進み具合によっては間際でキャンセルを入れることさえあった。
そんな私を、彼らは「チェロ奏者を目指す私」ごと受け入れ、その上で友人関係を持続していくために心を砕いてくれていることが伝わってきたからだ。
彼らが引いた一本の線は、時に寂しさをもたらすことも確かにあった。
しかし、厳しい音楽の世界と誘惑の多い学生生活、その二つへ同時に足を踏み入れていた当時の私にとっては、常にその境界線を思い出させ、今の私を形作るに必要不可欠な線であった。
親友となった彼女を含む彼らとの友人関係は、あれから10年以上を経た今もなお続いている。
ヘッセからはじまった私の海外古典文学熱は、ドイツ文学へと行き着いた。
ドイツの作曲家の音楽を愛した私は、文学でもドイツを愛した。
ドイツ文学には常に、自然の存在がある。
そして時として、景色が鏡のように人の心を映し、情景として描きこまれる。
自然という壮大なものの中に私たち人々の暮らしがあり、どんな悲しみも絶望も、その大きな存在に包まれていることを思い出させてくれる。
悲劇ばかりを読んで疲れた私の心を救ったのもまた、そんなドイツ文学であった。
ドイツ人たちは、自然への敬意を忘れない。
寒さを感じるほどクーラーを利かせる日本と違い、暑さをしのぐ道具は扇風機や自然の風ばかりで、ごみの分別やリサイクルにも意欲的に取り組む。
それらすべては、自然のため。
「そんなことをしたら、美しい自然が壊れてしまうじゃないか」
自然に生かされてきたことを忘れず、その恩を日々返していく。
少しの不便は彼らにとって、自然のためならば何のことはないのだ。
「暮らし」と「自然」を守るドイツ人気質。
私が音楽留学の地にドイツを選んだのは、文学からうかがい知れる彼らのそんな気質に惹かれたことも大きく影響しており、
やはりそのきっかけは、ヘッセが与えてくれたのだ。
中学でヘッセの作品と出会ってからずっと、私は彼を思い続けてきた。
そして2019年の一日目。新しい年のはじまりの日。
私はヘルマン・ヘッセと会うために、彼の生まれ故郷を訪ねた。
Calw (カルフ)
それが彼の生まれた町。
彼の代表作『車輪の下』の舞台にもなっている。
シュトゥットガルトから電車とバスを乗り継ぎ、ようやくたどり着くそこは、黒い森の近くに位置する静かで小さな町だった。
年に一度、大晦日だけ花火を許されるドイツでは、爆発音交じりの大騒ぎの翌日、街は閑散とするもの。
それにしてもそこは、前日のゴミもなければほとんど人とすれ違うこともなく、まるでひっそりと眠っているようだった。
あいにくの雨混じりな曇天の下で、町に残るヘッセの面影をめぐる。
橋の上に立つヘッセと写真を撮り、レリーフを探し歩いた。
そうしてゆっくりと散策を楽しんだ後、お目当てのヘッセ・ミュージアムを訪れた。
画家・ゴッホのように、死後評価を受けるようになったヘッセ。それは、車輪の下の主人公と同様に、神学校を脱走した彼の過去にある。
神童ともてはやされた幼少期にかわり、故郷に泥を塗ったと責められる日々。
後にスイスへと国籍をうつした彼は、今もその地に眠っている。
それでもヘッセは、カルフを愛し続けた。
焦がれる気持ちを文や絵に残し、思い出を語った。
ヘッセが評価を受けるようになったきっかけは、ノーベル文学賞の受賞だったと聞く。
ヘッセ贔屓だった私は、そのことにどこか寂しさを覚えていた。
彼の作品の中に漂うぬぐえない孤独感が、より一層私をあおった。
だから、驚いた。
小さな家の一階 (ひとかい) にもかかわらず、彼の思い出の品々は所狭しと並び、それらは凝ったデザインによって囲まれていた。
そこは、この町の人々からヘッセに向ける愛情にあふれていた。
博物館を出た途端、鐘の音が鳴った。
冬のシンとした空気に伝わり、町中に響き渡るようなそれは、ヘッセの生家そばに建つ教会から鳴っていた。
もちろんこの音は、生前ヘッセも聞いていたはずだ。
神学校へとすすんだ彼にとって、教会は切っても切れないもの。
そんな彼の毎日に、在った音だ。
いま、自分は確かに、ヘッセと出会っている。
そんなことを思った。
一昨年の6月、親友の結婚式が行われた。
その披露宴で、私は彼女から友人代表のスピーチを任されていた。
彼らとの思い出を語っていくうち、私は何度も涙で言葉に詰まり、同じように涙ぐむ彼女を見ては、ますますそれは高まった。
行事でも卒業式でも、一度も涙を流さなかった私たちは、あの日初めて、お互いの泣き顔を見たのだ。
過去を振り返れば誰しも、心残りは覚えるもの。
やっておけばよかったと後悔したことも、捨ててしまった選択肢もあった。
それでも私は、あれは確かに私にとって青春であったと、胸を張って言える。
そしてその思い出は、ヘッセの作品を読むたびに、私の胸に幾度も幾度も、鮮やかによみがえるのだ。
ヘルマン・ヘッセがこの世に生を受けたのは、今から142年前のこと。
それは今日と同じ、7月2日のできごとだった。
上原ありす (Alice Uehara)
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