ドイツに渡り、初めてライン川を見たとき
まるで飲み込まれてしまいそうだと思った。

それは、想像よりも大きく悠然としていて
じっと川面を見つめていると、吸い込まれるような感覚を覚えた。

そこに飛び込んでしまった「彼」の気持ちが、少しだけわかるような気がした―――

 

 

「彼」―― 作曲家 ロベルト・シューマン

 

今の私と同じ、29歳のシューマン 

 

彼の遺した事実上最期の音楽は、彼がライン川へと身を投げる、その日に書かれている。

それは、幻覚と幻聴の最中(さなか) に頭に流れた(彼は「聞いた」と記している)
美しい天使の合唱を主題としたもの。

まるで彼はゲーテのファウストの如く、その美しい音楽を紙に閉じ込めるようにして完成させた直後、家を飛び出し、そのままラインへと向かった。

 

Zum Augenblicke dürft ich sagen:
Verweile doch, du bist so schön!

私はそうした瞬間に向かってならこう呼びかけてもいいだろう。
とどまれ、お前はいかにも美しいと。

――― ゲーテ『ファウスト』より

 

今が死ぬべき時だと、そう思ったのだろうか。

(この時作曲されたのが『主題と変奏』変ホ長調である。
諸説によれば、2月17日に幻聴を聞き、2月24日に曲を完成。しかし楽譜が残されていないため、どの程度の完成かは不明。
そして自殺当日の27日、この変奏曲の楽譜を書き終え、ラインに向かった。現在出版されているものは、この時に書かれた自筆譜に基づいている。)

 

まだ青年であった頃、シューマンにはひとつの予感があったという。

シューマン16歳の年、姉エミーリエが精神を病み、川に身を投げ命を断った。
父はそのショックから病に伏して亡くなった。

立て続けにおこった家族の死によって、シューマンはある種の天啓のようなものが閃いたと記している。
いずれ訪れる自身の死は、精神を病んだ上での自殺である、と。

しかし、シューマンのその予感は少しばかり外れ、救助された彼の自殺は失敗に終わった。

これを「幸い」と呼ぶべきだろうか…。

その後、精神病院へと入院することとなった彼であったが、当時の病院の現状を思えば、この救済が幸運だったのか私にはわからない。

だからこそ、この頃の彼を思うと、胸の内が重く苦しく沈み、たまらないような気持になる。
まるで惹かれるように、何度も何度も、彼の面影を探しにラインへと足を運ぶ自分がいる。

自殺へと至った原因は、後の人々によって様々に解釈をよんでいる。

彼が最後に見つめたラインは、どんな表情をしていたのだろう。

 

 

「老いて堂々とした父なるラインの初めて見せる光景を、冷静な心全体で受け止めることができるように、ぼくは目を閉じてみました。
それから目を開いてみますと、ライン川はぼくの前に古いドイツの神のようにゆったりと、音もたてず、厳粛に、誇らしげに横たわり、それとともに、山や、谷のすべてがぶどうの楽園である、花が咲き緑なすラインガウのすばらしい全景が広がっていたのです。」

―― 1829年5月  母・ヨハンナに宛てた、若き日のシューマンの手紙

 

 

曲は、その作曲家の心を映しだす。

陰りを帯ていく、その晩年に書かれたシューマンの『チェロ協奏曲』は、躁鬱であったともいわれている彼の心そのままだ。

たゆたうようなピアノが、静けさと緊張感を孕んだチェロを引き寄せ。
激情を覚えたかと思えば、唐突に解放、また嘆き。
そして、それを切り裂くようにして、切なく暖かなメロディがあらわれる。
まるで美しい思い出を振り返るように。


芸大時代、室内楽の授業でシューマンのピアノトリオに取り組んだ際に、シューマンの第一人者ともいわれている、ピアニストの伊藤恵先生にご指導を賜った。

その時、幾度も繰り返された言葉に「ファンタジー」があった。

ファンタジーが理解できなければ、彼の曲を理解することはできない。

その教えの影響からか、彼のチェロ協奏曲を演奏する度、私は深い森を連想する。

深い森には霧がたちこめるもの。
それを掻き分け、歩んでいるシューマンの姿が思い浮かぶ。

 

 

昨日、10月13日。私は、自身の誕生日を迎えた。

その日は、贈られてくるお祝いのメッセージに目を通しながら、なぜか一歩も外には出ず。
一人部屋の中でずっと、彼のことを書き連ねていた。

書籍販売や出版業を営んでいた父の元に生まれたシューマンは、本に囲まれ生まれ育ち、後に音楽を志した。

母に読み聞かせをねだる幼いシューマンの姿が、自身の幼少期の頃とかさなる。

 

今、私は彼の書いた『音楽と音楽家』を再読している。

 

 

ピアニストの道を断念した後、彼は作曲家として活躍する傍ら、文才を生かして音楽評論の活動も行っていた。

当時はまだ無名であったブラームスを発掘し、彼を世に広めたのもシューマンであり、この評論だ。

 

すると、果たして、彼は来た。
嬰児の時から、優雅の女神と英雄に見守られてきた若者が。
その名は、ヨハンネス・ブラームスといって、(中略)先日私のところにきたのである。

彼の演奏ぶりは全く天才的で、悲しみと喜びの声を縦横に交錯させて、ピアノをオーケストラのようにひきこなした。
またとうとうたる流れが、流れ流れて滝となって落ちるように、どの曲も散々流れた末に、彼の中に呑み尽されるのではないかというような気もした。

そうして、弓形に流れ落ちる滝の上には、のびやかな虹がかかり、岸辺には蝶々が舞い、鴬の声さえきこえた。

彼の同時代人として、私たちは世界への門出に当たって彼に敬礼する。


――シューマン『音楽と音楽家』 新しき道 より

 

素晴らしいものを、素晴らしいと称える。
ただそれだけのことが、人にとっては時に、とても難しいことがある。

新しい才能の出現に寄せたシューマンの言葉は、そのまま彼自身の純粋さと「美しさ」に対する誠実さのあらわれではないだろうか。

 

音楽と文学をつなぐように生きた彼の存在は、いつも私の心にあり、生きる指針のようなものにさえなっていた。

なにより、渡る国にドイツを選んだのは、ここが彼の国であったからだ。

 

そうして、彼の国で彼を巡り、彼の曲を演奏しながら

私はずっとシューマンの心を探し続けている。

 

(5年程前に訪れ、撮影したシューマンの墓碑。ドイツ・ボンの墓地にて、クララと共に眠っている。)

 

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【ドイツ在住チェロ奏者・エッセイスト】 東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校、東京藝術大学音楽学部を経て、渡独。現在 Hoschule für Musik Mainz(マインツ音楽大学) にて留学中。 ドイツと日本の二カ国を拠点とし、演奏・執筆活動を行っている。 詳しいプロフィール・他記事はサイトまで。